イギリスの海外領土であるセントヘレナ島はアフリカ大陸から2800km離れた絶海の孤島です。
まずは一介の砲兵士官からフランス皇帝に成り上がったナポレオン(1769年8月15日 – 1821年5月5日)の足跡を簡単に紹介します。
ナポレオンはコルシカ島出身で陸軍幼年学校、陸軍士官学校と軍人の道を進み砲兵士官となった。
当時はフランスの状況は国内では政治闘争、そして外国とは戦争状態というフランス革命後の混乱期であり、ナポレオンはその軍事的才能を多いに発揮して対外戦争、国内鎮圧で戦功を上げ軍人としてだけでなく政治的な意味でも存在感を強めていきました。
軍事クーデターにより実権を握る
ナポレオンはフランスを統治していた総裁政府が混乱している好機を捉えて軍事クーデターを敢行、統領政府を樹立しフランス政治の実権を握ります。
統領政府の実権を握り独裁者となったナポレオンは政治家として税制改革、産業復興、現代の法律の基礎となるフランス民法典(ナポレオン法典)などに辣腕をふるいます。
皇帝になる、ヨーロッパ各地に進行する
そして圧倒的な国民の支持を背景にフランス皇帝の座につきます、ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)の誕生です。
国内を掌握したナポレオンはヨーロッパ全域にフランス軍を進め、プロイセン、ロシア、オーストリア軍を撃破し、イギリスを除くヨーロッパを支配下におきます。
砲兵士官からヨーロッパに君臨する権力者へ登りつめます、ナポレオンの絶頂期です。
ロシア遠征の失敗、皇帝追放
当時ナポレオンは抵抗するイギリスを経済的に追い詰めるためにイギリスとの貿易を禁止する大陸封鎖令をヨーロッパの征服地に出していましたが、ロシアがイギリスとの交易を再開します。
皇帝の勅令に違反したロシアへの遠征の開始がナポレオンの転落の始まりになります、ロシア領土へ深く誘い込まれたナポレオン率いる同盟諸国軍60万は「焦土作戦」「冬将軍」により大敗北を喫します。
この敗北をきっかけにヨーロッパ各地で反ナポレオン勢力が息を吹き返し、勢いに乗ったオーストリア、プロイセン、ロシア、スウェーデンの連合軍にナポレオンは敗北し、パリが陥落、ナポレオンは皇帝の座から転がり落ちます。
再び連合軍に挑む
皇帝から失脚したナポレオンはイタリア近海のエルバ島に追放されますが、ひそかに復活の機をうかがっていました。
ナポレオン追放後に復権したルイ18世の国内政治が不安定な状況であるのを好機としてナポレオンはエルバ島を脱出し、再度フランス皇帝の座に着きます。
そして、再び反ナポレオン連合との戦争になります、緒戦こそ勝利しますがワーテルローの戦いで連合軍に敗北、全てを失います。
セントヘレナ島へ流刑
連合軍はナポレオンが2度とフランスに戻って来れないように南大西洋の孤島セントヘレナ島へ幽閉しました、さすがのナポレオンも脱出することも出来なくなりセントヘレナ島で亡くなりました。
エルバ島
ナポレオンの1回目の流刑地はイタリア領エルバ島になります、ナポレオンは299日過ごします
その後、脱出して復位を遂げます
セントヘレナ島
ナポレオンの2回目の流刑地は大西洋のアフリカ西海岸寄りのイギリス海外領土セントヘレナ島になります。
付近の国としてはアンゴラやナミビアになります
生活はイギリス軍の監視下に置かれ、島にはイギリスの部隊が駐在し周辺の海域には軍艦、セントヘレナ島から北と南に位置するアセンション島やトリスタンダクーニャ島にもイギリス軍が派遣された
1815年にセントヘレナ島に流刑となって、さすがのナポレオンもこの絶海の孤島から再び生きてヨーロッパに戻ることは出来ませんでした。
ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)
【出生1769年8月15日フランス王国コルシカ島】ー【死去1821年5月5日イギリス領セントヘレナ島(51歳没)】
ちなみに、セントヘレナ島には日本からヨーロッパへ向かう途上の天正遣欧少年使節が1584年5月27日に寄港しています、またナポレオン没後の40年後の1860年代にオランダ留学の途上に榎本武揚がナポレオンの住居跡などを訪ねています。
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